証言

文鮮明師の特別補佐官であり、韓国世界日報社長(当時)・米国Washington Times初代社長である、朴普煕氏の自叙伝的著作です。
この中に、文鮮明師(以下、文師)と、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の金日成主席(以下、金主席)との、1991年12月6日の会談にまつわる記録があります。
文師が北朝鮮の出身だから、家庭連合は北朝鮮と繋がっているなどと、短絡的に批判する人たちがいますが、これを読むと、如何に文師が極東の安定のために心を砕き、命をかけたかを、知ることができます。

当時、世界は大きく変動していました。1989年に中国では天安門事件が発生、ベルリンの壁が崩壊、ルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領が民衆により殺害されました。1991年に入ると、湾岸戦争が勃発しイラクの独裁者フセイン大統領が攻撃され、年末にソ連が崩壊しました。

北朝鮮の独裁者である金主席は後ろ盾を失い、頼るべきものは力のみとして、核兵器開発に走ります。米国は本気で北朝鮮に対して、先制攻撃を仕掛けることを考えていましたが、そんなことが起きれば、第二の朝鮮戦争が勃発しかねません。北朝鮮が核兵器開発を断念し、IAEAの査察を受け入れることが望まれていましたが、追い詰められていた金日成主席は耳を貸そうとしません。

文師は、自分が金主席に会い、核兵器開発を断念させるしかないと決意します。しかし、勝共思想を持ち、金主席の主体思想は間違っていると断言する文師を、金主席が受け入れるはずがありません。それでも朴普煕氏が北朝鮮に打診を続けていたところ、1991年11月30日に文師一行は奇跡的に北朝鮮へ行くことができました。

北朝鮮に行っても、金主席が文師と会うかどうかは決まっていませんでした。金主席は、文師がどういう人なのか、言動を見ていたのでしょう。
そんな中で、とんでもないことが起きます。12月2日の日曜日、北朝鮮の幹部数十名との面談が開かれ、文師が招待に対する挨拶をしました。その場で、文師はいきなり「(金主席の)主体思想は間違っている!」と叫び始めたのです。

少し長いですが、原文を引用します。

ついに先生(文師)のみ言葉の爆弾が炸裂した。汗を流しながら、大聴衆を前に語るように大声で北朝鮮の指導者たちをどなりつけた先生は、彼らを統一信徒を扱うようにされたのである。

尹基福委員長を指さして、
「何が『主体思想』か。主体思想が人間中心の思想だと?どうして人間が宇宙の中心になるのか。人間も一つの被造物であることを知らないのか。人間は創造主ではない! ない! わかったか! 被造物である、被造物! 尹基福委員長! だからその人間の上に創造主がいらっしゃる。そんなことも知らずに、何が『主体思想』だ。その主体思想をもって祖国を統一するだと? とんでもない。とんでもない。主体思想の上に神様を戴かなければならない。神様を戴いてこそ北朝鮮は生きる。もしもし、尹基福委員長。分かった? わかったかと言っているのです。なぜ返事がない!」

私は心臓が止まりそうだった。体は緊張して木のように固くなっていく。唇が渇く。
今にも彼らががばっと立ち上がって、飛び出していくのではないか?いや、彼らが怒って先生を攻撃したりしないだろうか?
手に汗を握りしめて、私はぶるぶると震えた。何かが怖くて震えたのではない。先生に危害が及ぶかもしれにいと恐れて震えたのである。

「主体思想をもって統一はできない。したがって、神主義、頭翼思想によらずして統一はできない。できない! 統一は私がやる。私が! 私に任せてみなさい。私が北朝鮮を生かしてやる。分かりましたか? 尹委員長!」

先生はこの時、机をバンバンと叩かれた。尹委員長は、頭を深くうなだれたまま、何の答えもない。その横に座った朝鮮労働党の幹部たちは、目玉を剥き、身をわなわなと震わせ、すぐにでも何か事を起こそうとしているかに見える。
私は隣の金孝律補佐役にメモを書いて渡した。
「All is finished. We are dead.」 終わった、私たちは皆、死んだ、という意味である。
こうしている間に、北側の誰か一人が立ち上がって、血気を抑えられずに襲いかかってきたら、お父様をどうやってお守りしようか。
それが私の唯一の心配であった。

「もしもし、尹委員長。金副総理! 北朝鮮を私に任せなさい。三年だけ任せてみなさい。皆が良く暮らせるようにしますから。私が主席になるということではない。この国を金日成主席以下、私が皆生かそうということだ。」

ここでわれわれは再び手に汗を握った。これ以上金主席を取り上げて論じれば、問題が必ず起こってしまうだろう。
「私は金主席を好きだということだ。しかしその両班も私の言葉を聞かなければ生きられない。私の言葉を! 分かった? 委員長!」
再び尹基福委員長を指さして、「なぜ答えない!」
これは完全に小学生扱いである。私はそこで目の前が真っ暗になった。

文師は、会議がおわってから、朴普煕氏にこう言いました。

「私は何も金日成に会いに来たのではない。私は真理を語りに来たのだ。天は私がかとるべき言葉を一度みな語ってからかここを離れることを望んでおられるのだ。これはまた金日成主席をテストすることである。よーし、見てみよう。その人となりがどの程度のものか。度量の狭い男なのか、大きい男なのか。私がちょっとひどいことを言ったからと言って会わないというなら、それは度量が狭い男だろう。」

その結果、金主席は、文師をえらい男だと感服し、1991年12月6日の歴史的会見が実現したのです。
文師はその場で、北朝鮮が核兵器開発をするのは、アメリカに先制攻撃をする口実になるので北朝鮮にとっても、さらには朝鮮民族全体にとってよくない、二度も祖国を戦場にしてはいけないと話しました。

文師と金主席の会談の直後、北朝鮮が大きく動きます。
1991年12月13日「南北間の和解と不可侵および交流協力に関する合意書」、1991年12月31日「韓半島の非核化共同宣言」、1992年1月30日「国際原子力機関(IAEA)の、保証措置(核査察)協定」に、北朝鮮は調印したのです。
これは、文師と金主席の会談の、具体的な成果であると見て間違いありません。

1994年に金主席は逝去、2012年に文師が逝去、2019年に朴普煕氏も逝去しました。
しかし、世界平和と、その前提となる朝鮮半島の平和的統一の志は、歴史的な会談に立ち会った、韓鶴子総裁に引き継がれているのです。