脱会説得による悲劇① 夫と当時1歳半の長女を拉致され、家族が引き裂かれた(妻)Tさんの苦悩

家庭連合信者への拉致監禁については、あまり実態が知られていないようです。事例を紹介する動画がYoutubeにアップされているので、何回かのシリーズで紹介します。

今日は、その第1回目です。

動画を見る時間がない方のために、動画の内容をテキストにしました。下記掲載します。

1999年11月13日、都内に住むSさん(当時32歳)が当時1歳半の長女と一緒に、埼玉県の実家に日帰りの予定で帰ったが、その後、半年たっても彼は自宅に戻るどころか、妻のTさんに電話一つかけてこなかった。
Sさんの「失踪」に、夫の実家が関与していることははっきりしている。
Sさんの両親は、Sさん夫婦が家庭連合(旧統一教会)の国際合同祝福式に参加し、結婚したことに強く反対していた。
妻は婚約中、実家の敷居をまたぐことさえ許してもらえなかった。
長女が生まれたことで、両親の態度は幾分和らいだが、それでも実家に上げてもらえなかったという。

1999年10月半ば。Sさんが実家に、教会発行の冊子を送ったところ、母親から電話が入った。
「小冊子を見たが、わからないところがある。家に来て直接説明してくれないか」
少しでも両親の理解を得たいと思ったSさんは、11月13日に行くと告げ、実家に向かったのである。
その夜、夫が帰宅しないので、妻のTさんは何度も実家に電話を入れた。だが、だれも受話器を取らない。妊娠中で体がきつかったため、知人に頼み、車で実家まで乗せてもらった。
前日は「家族全員がそろう」といっていたのに、家は雨戸が締め切られていた。その日の夕刊も、ポストに入れられたままだった。

深夜、夫の父親から電話が入った。
「(S)と話し合いの場を持っている」と言う。Tさんは夫の手帳に11月14日以降の仕事の予定が書かれていることを指摘し、「話し合いは夫が承知しているものではない」と反論する。

Tさんはすぐに動いた。
15日に警察署を訪ね、夫と娘の「捜索願」を出した。職場にも連絡を入れ、何か動きがあれば教えてほしいと頼んだ。夫の父親にも内容証明郵便を送付。
「自分は妊娠6か月で夫の助けなしで生活することは困難です。夫はストレスに弱く、神経が細かいため時折、胸の痛みを訴え通院していた経緯もあり、こうした症状が再発するおそれがあります。娘は風邪をひき病院に通っています。一刻も早く、夫と娘を解放するように要請します。」
夫と娘の衣類や薬、ぬいぐるみなどを実家に送った。

実家にいつの間にか付けられた留守番電話にメッセージを吹き込んだ。
「夫と娘を早く返してください」

失踪から2週間後、父親から「この話し合いは簡単には終わらない」という速達が届く。
どこにいて、いつ帰れるのか。Tさんが知りたいことは何も書かれていなかった。

その頃のTさんの精神状態は、どんなものだったのだろうか。「言葉では言えない、言葉にはならないものだった」とTさん。電車に乗ると、この電車で夫と娘が実家に帰ったのかとの思いが湧き、自然に涙があふれた。
長女のことを思い出してしまうので、小さな子供の姿をみることもできなかった。

夫と娘が拉致されて40日が過ぎた。
街はクリスマスのにぎやかなムードに満ちていた。
しかし、Tさんの心は沈み、手紙を書けば、それはいつの間にか“遺書”になってしまった。
今も破らずに残している手紙がある。

【夫に宛てた手紙】
Sさんと娘のいない生活なんて考えられません。
もう耐えられません。これ以上生きていたらあなたのご両親を恨まなくてはなりません。だから…私の存在がなくなればSさんの責任も軽くなるし、ごめんなさい。
家の中にいればどこを見回してもSさんと娘の影があって苦しくて涙が止まりません。
娘が大きくなって物事がいろいろわかるようになったら、私のこと話してあげてください。
Sさん、愛しています。でも、ごめんなさい。
体に気をつけて生きてくださいね。
あなたともっと一緒にいたかった
…でもそれができないのなら
…短い間でもあなたの妻でいられたこと幸福に思います」

【娘に書いた手紙】
ごめんね、本当はあなたの成長を見届けたかった、あなたの産声を聞いた時、感動で涙があふれたことを昨日のことのように覚えています。
首がすわり、ハイハイをし、つかまり立ちができ、初めて歩いたあなたの姿は本当に可愛くて言葉に表すことのできないものでした。
保育園でもいろいろな先生に愛され、おかあさんの自慢でした。迎えに行くと飛んできておかあさんといっしょに階段を下りました。
あなたの手のぬくもりを今でも覚えています。
でもまさか、あなたのおじいちゃん、おばあちゃんの手によって引き離されるとは思ってもみませんでした。
おかあさんは、お父さんやあなたなしではとても生きていけません。
頑張ってきたけれども、もう限界です。おかあさんを許してね。
もっともっとあなたをいろいろなところに連れて行ってあげたかった、いろいろな話をしてあげたかった…
どうかお母さんの分まで力強く生きてください。そして、お父さんを支えてあげてください。あなたに出会えて幸せでした。どうもありがとう。

自殺を踏みとどめたのは、当時お腹にいた次女のため。
「お腹の子が“私は生きているんだ”という元気なメッセージを送ってくれたので、辛うじて踏みとどまることができました」

Tさんは、2000年に入って、浦和地裁に夫の両親に対して娘を引き渡すように求める仮処分申請を申し立てたが、相手方が裁判所に現れなかった。その後、事態の進展をみることはなかった。
それでも長女との生活が諦められず、Sさんの両親に対して婚姻妨害と長女に対する親権侵害で、損害賠償を求める民事裁判を東京地裁で起こした。夫は最初、仮処分申請時と同様に姿を見せなかった。
だが、再度申請すると、2000年8月頃、弁護士の山口氏と共に二人で東京地裁に現れた。夫の失踪後に顔を合わせたのは、この時が初めてだった。夫のSさんの様子は変だった。
明らかに山口弁護士を意識した行動を取るときもあった。裁判所の一室で二人きりの話し合いで、小さい声でも十分に聞こえる場所にもかかわらず、外にいる山口弁護士に聞こえるように、怒鳴るような大声で迫ってくることがあった。話が二転三転し、前回会った時とは違う内容になることもしばしばだった。
ちょっとした質問もすぐに答えは出さず、その次に会う時まで弁護士らと話し合ったと思われる節も見受けられた。
また、Sさんが献金した分を返金するように家庭連合(旧統一教会)に求めてきたときも、山口弁護士の影を感じた。返金の振り込みを指定した口座が、山口氏の弁護士事務所の口座だったのだ。

やがて、強制棄教させられたSさんから離婚の申し出があり、Tさんは意義を唱えたが、認められなかった。月に1回の相互面会だけは取り付け、SさんとTさん、長女と次女が会う時間は持てた。
しかし、相手は法律のプロの弁護士。Tさんは全くの素人。Tさんが“失敗した”と思ったことは、調停d得取り決められた文面の中に、相互面会は、「子供の成長に配慮して」という言葉が入れられていた点だった。
面会中のあるとき、長女が誰かに言わされているような様子で、「会いたくない」と言ってきた。
この一言を相手方が盾に取り、「面会は子どもの成長の妨げになる」として、長女と会えなくなってしまった。

夫の突然の失踪から10年の歳月が流れた(2009年時点)。
夫と長女がいない失意の中で出産した次女は9歳。人見知りが激しかった。
小学1年から家庭連合の合唱団に入った。通っていた音楽教室の初めての発表会では、母親から離れず、舞台のピアノの影に親子で並んだほどだったが、今は人前で堂々と歌う。
子どもが合唱団に所属し、神性に満ちた美しい表情で発する歌声を聞くとき、Tさんは言い知れぬ感動に満たされる。
だから、「この子が成長し、祝福を受けてもらえるように頑張らねば」と自分を励ますTさん。
母子家庭ゆえに、経済的に楽ではない。だが、彼女の悲しみは別にある。
「どんな時がつらいですか」と問うと、Tさんはこう答えた。
「いつの時もつらいです。子供にとって生まれた、いえ、生まれる前から父親はそばにいないので、家の中に父親がいないことに違和感はないようです。また、それがつらいです。
先日、教会に向かう途中、お母さん、赤ちゃんが欲しいね。弟が欲しいよ。産んで!」と言われ、答えに困ってしまいました。これから、いろいろなことが分かってくるに従って、どのように伝えるべきか悩みます。

Tさんは今でも、夫の姓で通している。「いつの日か、彼と長女が帰ってくると信じているからです。引き裂かれた家族が再び一緒に過ごす日が来ることが私の夢であり、希望なのです」とTさんは語る。