脱会説得による悲劇(3) 痛哭と絶望を越えて③ 「逆境を越えて得た親子の絆」O・Yさんの体験

家庭連合の信者に対する事例紹介動画の第3回です。

私は20歳で家庭連合(旧統一教会)と出会い、24歳で献身的に歩むようになった。
1988年10月30日、6500双の祝福結婚式に25歳で参加。その約1年半後の1990年5月、拉致監禁された。

かつて一緒に歩んだ、同県出身の女性が拉致監禁されて脱会。その女性が 私の母の職場を訪ね、「Yさんを救い出すために協力したい」と言い反対牧師を紹介した。その後、私の両親は反対牧師から2年間、教育を受けて密かに拉致監禁の準備をした。

私が献身的に歩むようになった年、父方の祖母が亡くなった。
父は「一度、墓参りに来てほしい、そうすれば信仰も認める」と言ってきた。
私は、今までお世話になった祖母のお墓に手を合わせたいと思った。
「もしかすると、監禁されるのでは?」との不安もあったが、1990年5月、1泊2日の予定で帰省した。

1日目は何事もなく終わった。2日目の朝、父が電話でヒソヒソと話しているのを聞き、不審に思った。
その日、帰る前に、お墓参りをし、本家に挨拶に行く予定だった。ところが、父の車はお墓ではなく、伯母の家に向かったのだった。伯母の家に着くと、親戚がたくさん集まっていた。
突然、父は「今から話し合いをする。徹底的に話し合う。解決するまで出さない」と述べ、監禁が始まった。
その瞬間、父の目が蛇のような目に変わった。「この監禁の背後にサタンがいる」と思った瞬間だった。監禁で、私が恐れたのは反対牧師や親戚以上に、自分自身の心だった。私がどれくらいこの道を信じているのか、これから試されるのだと思った。

監禁1日目。すぐに苦しくなった。たった一人ぼっちの闘い。
反対する人々に囲まれた土俵で闘う。ほんとうに難しさを感じた。この状況を越えるには、神様から知恵をいただくしか道はないと思った。

約1週間後、佐賀唐津聖徒教会の中村勝彦牧師、熊本の希望ヶ丘教会の本田勝宏牧師の二人が来た。牧師を見て怒りが湧き、私は持っていた本を投げつけた。牧師は「話を聞くつもりはなかったのか、聞くという約束は?」と尋ねるので、「そんな約束はしていない。話し合いは親子の問題だ。あなたたちに何の関係もない」と答えると、牧師は怒り「娘さんは聞く耳を持っていない。話を聞くようになったら呼んでください」と、帰っていった。

その後、親たちは、私が幼少期に育った母の実家(お寺)に移せば、私の心も開くのではないかと、監禁場所を母の実家に移した。
お寺の本堂の裏には小さな部屋が2つあり、その一つで生活することになった。
浦部屋で天井が低く、そこにポータブルトイレ、布団、机が備え付けられ、食事も洗面もその部屋でした。
監禁場所に、今度は日本基督教団鹿児島教会の布田秀治牧師がきた。何人もの牧師たちが連携していたのだ。
窓はサッシと障子の二重になり、大きな釘が打ちつけてあって外は見えなかった。
隣の部屋の仕切りにも釘が打ちつけられ、ドアにも二重に鍵がかけてあった。

私は、拉致された後、40日ほどして離教する人を見て、そんな簡単に神様を裏切られるのかと、それまで不思議に思っていた。
しかし同じ境遇に立たされ、その気持ちが分かった。監禁部屋は天井がかなり低く、1ケ月間も閉じ込められると霊的に力を失っておかしくなる。
聖書も聖歌もみ言葉も取り上げられ、祈祷しなければ邪魔をされ、突き飛ばされたり、音をたてたり。祈らなければおかしくなる。その時、思い出したのが、海外宣教に行った宣教師たちのこと。
アフリカなどに宣教に行ったメンバーは、心情が落ちても、牧会してくれる人はいない。み言葉も届かない。ただ祈るしか、神様につながる道がない。それが思い出された。
さらに思い出したのが、「新天地」という機関誌に掲載された李ヨハネ先生のメッセージだった。「重大なとき神様に相談しなかった」とのメッセージが頭に残っていた。
だからとにかく祈って神様につながるしか道がないと思った。
布団をかぶって寝たふりをし、毎日必死になって祈った。最低でも朝40分、昼21分、夜12分、毎日必ず真剣に祈った。

【啓示と夢によって導かれる】
すると不思議なことが起きるようになった。
祈祷を始めて21日目くらいのこと。夢を見るようになり、啓示が下りるようになった。特に3つの啓示を今でも鮮明に覚えている。

今から考えれば神様に申し訳ない話だが、もし私が霊的におかしくなり、神様と真の父母様を裏切るようになれば、そのときは生きていられない。死んだほうがいいと思って死ぬ準備をした。
かみそりを用意し、母のバッグから強い頭痛薬を取り出し、それを隠し持って祈り続けたのだ。「神様、もし万一あなたを裏切るようなことがあったら、私はこの薬を飲み手首を切って死にます」
その時1回目の啓示が下りた。「どうして死ぬのか、あなたは生きて信仰を全うしなさい。文先生はメシアであるがゆえに、死ぬことができなかったのだ。」
「あの興南の監獄に入れられたとき、自らの肉体を生かしていかれたではないか。だから、あなたはこの場から出て、信仰を全うしなければならない」私は申し訳なく思い、「なぜ死ぬことを考えたのだろう」と思い涙が流れ、思いとどまった。

2回目の啓示は、「サタンはあなたを脱会させるだけが目的なのではない。祝福家庭を一つでも崩したいのが目的である」という内容だった。

3回目は、「私の願いを叶えてほしい。私の願いは、神の血統を地上に一人でも多く残してくれることだ」と。
その啓示を聞いて、私は、「まだ死ぬことはできない。ここから出て、神様の血統の子女を生むまでは死ねない。」と思った。

さらに不思議なことが次々と起こった。
監禁中、お寺の住職が「退屈だろうから」とレンタルビデオを2本借りてきてくれた。インディ・ジョーンズの「最後の聖戦」と、スティーブ・マックイーンの「大脱走」だった。
これを観て、本当に力が出た。ビデオは神様のメッセージのように思われた。
脱走不可能と思われた収容所を、囚人たちが抜け出していく。だから、この監禁も絶対に抜け出せると思ったのである。
「最後の聖戦」は、イエス・キリストの聖杯をめぐって善と悪が戦う。最後に、善が勝利するのを観て勇気を得た。
私の選んだ道は絶対に間違いない。

そんな中、また不思議な夢を見た。「ふすまの一部が開くから、隣の部屋に逃げなさい。そして窓から飛び降りて逃げなさい」と言われたのである。それは5月のこと。私はすぐに起きてふすまを開けようとした。
しかし大きな釘が打ってあり、開かなかった。なぜ、このふすまが開くと教えたのか、不思議に思った。私はとにかく40日目が来たら、窓を割ってでもこの場から出ようと決意した。40日目は6月に入って迎える日だった。

5月31日の朝、もう一度啓示が下りた。
「今日実行しないといけない。今まであなたが祈祷条件を積んできたことが、6月になれば、また一から積み上げなければならなくなる。6月はいつもさまざまに問題が起こる月だ。だから、きょう実行しなけれbならない」と言われたのであった。
そして、起きてふすまを見たら、なんと釘がなくなっていた。それを見た瞬間、神様が今日実行しなさいと言われていることを悟った。
釘がなぜなくなっていたのか、後で分かったことだが、私の気持ちが全く変わらないのを見た両親が、6月になれば大阪から村上密牧師を呼んで、私を隣の部屋で脱会説得するために、釘を抜き隣の部屋の準備をしていたのだった。
親は、釘を抜いたことに、私が気づかないと思っていたのだ。まさに脱出すべき時を、霊界が教えてくれたのだった。

【命がけの脱出】
その当時、お昼の12時から30分間は、部屋に監視役がいなくなった。また、お寺の周りは農家なので、12時から人が少なくなる。監視役がご飯を食べにいった隙に、私は急いで服を着替えて、隣の部屋に行き、脱出の準備をした。
窓は二重になっていたが、障子を破り、木の枠組みを全部外して、サッシをなんとかこじ開けた。下に飛び降りる直前にもう一度祈った。
神様、今私は飛び降りてここから出ます。もし脱出が失敗したら、もう逃げることが難しくなります。その時は、もしかしたら申し訳ないですが、やはり死ぬかもしれません。ですから神様、導いてください」
真剣に祈って、私は窓から飛び降りた。

下には小さな川が流れており、ずぶ濡れになりながらも走り続けた。私の母の姉は、監禁していることが外部に漏れるのを非常に恐れていた。
お寺なので、そういうことが漏れると広く知れ渡ってしまう。お寺の周りに門徒も大勢いるため、「走るだけではだめだ。近くの家に逃げ込もう」と思って、裸足のまま家に飛び込んだ。
そして、家庭連合の人につながらないと導かれないと思い、その家の人に電話を貸してもらうようにお願いし、家庭連合に電話を入れた。
電話で「今出てきました」と伝えると、「Yさん、6000年の出会いだね」と言われて、涙が止まらなかった。
教会の人は「そこの奥さんが良い人であるなら、車に乗せてもらって、近くの病院まで逃げなさい。そこからタクシーを呼んで、市内まで行きなさい」と語った。
その婦人がとても良い人で、裸足の私に靴と食べ物を下さり、病院まで送ってくださった。そこからタクシーを呼び、市内まで逃げることができたのだった。

ところで、脱出後、私には「なぜ、お寺の住職はあの2本のビデオを借りてきたのか」という疑問がずっとあった。
もしかしたら、「私を逃がしたい」という思いがあったのではないか、とも思った。
ずっと後でのこと。子供が生まれて帰省したときに、住職にその真意を聞いてみた。
ところが、住職は「自分はそんなビデオなど借りていない。何かの間違いではないか」と語ったのだ。
そのとき、これはこの人の意思でやったことではない。自分の意思ではないから、その記憶がないのだと思った。やはり、あれは神様からのメッセージだったのだ。

それ以降、私が意思を曲げないため、父も母も諦め、1992年8月に結納をした。11月に披露宴を行って籍も入れた。
その当時、マスコミの攻撃がとても激しかったのだが、親は「親戚は理解できないかもしれない。しかし、おまえと私は親子である。最後には、親は子を信じるものだ」と言って、無事に入籍を済ませることができたのだ。
私は、監禁の脱出後、親が大金を払って反対牧師を頼み、監禁した事実を知った。それが私の心を深く傷つけたが、み旨を歩む中でその傷は徐々に消えていった。

いろいろな責任分担を歩んだが、一番大きかったのは、伝道対象者をみ言葉で教育する責任を任せられ、歩んだことだった。
「一番血の近い人を愛したいのに、愛することができないのなら、遠い人からまず愛していこう。担当するすべての人を天につなげていきます」と思った。
わずか1年だったが、ほとんどの伝道対象者をつなげることができた。

ところが、あるゲストと重要な話をする日に、主人が私の両親と会う約束の日と重なってしまった。主人から、私も一緒に来て欲しいと言われたが、「ゲストの永遠の命が大切だ」と思って、私は帰らなかった。
今思えば、これがわたしの越えるべき最後の試練だったように思った。ゲストとの話が終わると同時に、主人から、私の両親が受け入れてくれたという連絡が入った。

私の監禁には、その他にも八代教会の中島牧師が加わり、計4人の牧師が着て、一日8時間、脱会説得をした。
しかし、私がどうしても変わらないため、6月になると5人目の村上密牧師が大阪からくる予定になっていた。
お寺での監禁中、いろいろな啓示を受け、出てきたその後、その月の機関紙「ファミリー」を読んだ。するとそこに1か月間、啓示を受けた内容がすべて書いてあったのだ。それを見て「文鮮明師のみ言葉は、神様のみ言葉である」と悟った。
これからも信仰を最後まで全うして頑張りたいと思っている。