イエスの生涯

カトリック教徒である遠藤周作の著作で、エルサレムを訪問した体験を交え、イエス・キリストの生涯を、小説家という立場から描き出しました。
イエス・キリストは神と一体であるという、キリスト教会の教義に縛られず、イエス・キリストの苦悩、喜び、寂しさなど、人間的な側面を書いています。

イエス・キリストの一般的なイメージは、奇跡により死人を生き返らせたり、盲人を見えるようにしたりする、力のある者というものではないかと思います。イエス・キリストは、人類の罪を救うために降臨され、いかなる迫害や苦難があってもその意思を変えることなく、十字架上でも神の栄光を称えながら、天に召されました。

しかし著者が描くイエス・キリストは、奇跡を行うのではなく、ただ社会的に振り向かれない弱者や病人に寄り添うだけの方です。イエス・キリストは、神の愛を受け入れないイスラエルの指導者や民に心を痛め、苦悩します。そして、十字架につけられるイエス・キリストの姿は、栄光の主というよりは、人々に嘲笑され罵倒される、無力で無能な姿だというのです。

さらに、弟子たちは自分がつかまることを恐れて逃げ惑う、情けない人間の姿です。あれほどイエス・キリストについて行くと誓いながら、いざ主人が逮捕されると、弟子たちは関係を否定し、四散してしまいました。

聖書作家は、どうしてイエス・キリストと弟子たちの、そんな姿を描いたのでしょう。
著者は、イエス・キリストが願ったのは、神の愛を証しすることだったからだと言います。

旧約時代の神は万能の主であり、力をもって異邦人を追い払う、力のある方でした。従わないものは、うち滅ぼしてしまう、厳しさをもっています。
しかし、イエス・キリストが示したかった神の愛は、誰にも顧みられない者を慰労する愛です。悲しみを理解し寄り添うことは、神の愛なくしてできないということを示したかったのです。

逃げてしまった弟子たちは、復活したイエスに会い、自分たちの過ちを悔い改めます。イエスを裏切って初めて自分の弱さとみじめさを知り、自分の罪を認めます。そしてそんな自分でも許され受け入れるイエス・キリストの姿に、神の本当の愛の姿を知るのです。そして、つかまることが怖くて逃げまわった弟子たちが、復活したイエスに会った後は、まるで別人のように強くなり、殉教も恐れず宣教にでかけるのです。

これは、「信仰」というものの本質を突き詰めた本だと思います。人間の本当の強さとは何か、考えせられます。