イエスの生涯(2)

遠藤周作は、その著書「イエスの生涯」において、聖書のクライマックスを、イエスの「受難物語」と共に、イエスの「復活物語」に重点を置いています。そしてその章を、「謎」というタイトルにしています。

イエス・キリストは、人類を救うために、神が地上に送った救世主であり、救いの切り札でした。そしてイスラエルの人々は、一旦はイエス・キリストを熱狂的に迎え入れました。
ところが、律法学者やパリサイ人の謀略により、人々は手のひらを返したようにイエス・キリストを非難し、「イエスを十字架につけよ」と叫ぶようになります。これが受難物語です。しかし、人はそんなに簡単に、人に対する態度を変えることができるものなのでしょうか。

逆に、イエス・キリストが十字架につけられる時に、弟子たちは恐ろしさのあまり四散してしまいました。しかしイエスは復活して弟子たちに会います。これが復活物語です。弟子たちは、復活のイエスに会った後、別人のようになりました。死をも恐れる勇敢な伝道師となり、実際に何人もの弟子が迫害により殉教したのです。人間は、どんなに感動したからといって、そんなに急に180度変わることなどできるのでしょうか。

聖書に描かれたこの2つの事象は、人間があまりにも大きく変わったことを示しています。著者は、そこには、大きく人間を変える「何か」があったのではないか、と書いています。受難物語では、著者は小説家としての想像力を働かせて、イエスに対する民族の王としての期待が裏切られたことを理由としています。しかし復活物語については、その章に「謎」というタイトルを残したまま、「何か」について書いていません。

おそらくそれは、読者が自分で考えて欲しい、ということなのだと思います。私は宗教者だから、それは「霊的な働き」だと思っています。人々をイエス迫害に駆り立てたのは「悪霊の働き」であるし、弟子たちを生まれ変わらせたのは「聖霊の働き」だったと思います。人間は、霊的な生き物だから、知的な判断だけで物事を決めているのではなく、その背景には、霊的な働きがあるのだと思います。

しかし、それは私が思っているだけのことです。著者も、きっと自分で答えを持っていたと思います。そしてそれは、違う答えだったかもしれません。何が正しい答えかはわかりませんが、著者が投げかけた「謎」について考えてみる価値はあると思います。