日曜礼拝

小学生の頃、仲の良い同級生のお母さんがクリスチャンで、そのお母さんに誘われてキリスト教会の日曜学校に通っていた記憶があります。伝道師が外国人で、何を話していたか全く覚えていませんが、讃美歌と、折り紙とかの簡単な工作をしたことは、覚えています。

讃美歌は、こんな歌詞で、今でも歌えます。
 主われを愛す 主は強ければ
 われ弱くとも 恐れはあらじ
 わが主イエス わが主イエス
 わが主イエス われを愛す

その当時から、イエス・キリストには親しみがありました。中学・高校と、カトリック系の学校に行きましたが、宗教家になる気持ちは一切なく、ミサには参加しませんでした。それでもイエス・キリストに対して違和感はありませんでした。

そして大学に入って統一原理に出会って、イエス・キリストの生涯を説明する「メシア論」を聞き、初めてイエス・キリストの生涯について真剣に考えました。天から使命を受けながら、十字架につかれたイエス・キリストの心情的な背景を知り、深く心を打たれたのです。私が統一原理を受け入れたのは、まさにこの瞬間だったと思います。

思えば、小さいころに出会ったイエス・キリストの姿は、青年期になるまで、無意識の中で心に焼き付いていたのだと思います。もちろん、家庭連合の信者である私は、文鮮明師の苦難の歴史を思うと、心が打たれます。そしてそれは、イエス・キリストと、イメージが重なるのです。

小さいころに覚えた尊いものへの想いというものは、生涯続くものなのでしょう。そしてそれは、大切にするべき心の宝物ではないかと思います。